代表者ご挨拶

代表の大元雅代です。

マサヨスタイルでは、アートメイクやメイクセラピーの知識や経験、および、看護師やケアマネとしての知識や経験・スキルを活かして、アピアランスケア(外見支援)や化粧・メイクについての情報発信やサポートを提供していきたいと思っています。

まだまだ、はじめの1歩の段階ですが、少しずつでもお役に立てる人となり、役立つサイトにしていきたいと思っています。よろしくお願いします。

経歴

  • 鳥取大学医療技術短期大学部看護婦科卒業
  • 東京医科歯科大学付属病院勤務
  • 広島大学医学部付属病院勤務
  • 福山市医師会看護専門学校 専任教員

資格

  • 看護師
  • 介護支援専門員
  • 福祉住環境コーディネーター2級
  • 福祉用具専門相談員
  • アートメイク国際ライセンス
  • フェイシャルエステライセンス

自己紹介

幼少期

広島市生まれ。父が転勤族だったため、6歳で島根県松江市に転居し小学2年まで過ごし、小学3年から中学1年までの5年間、広島県安芸郡府中町で過ごしました。

中2から中3まで福山市内、高校1年生で安芸郡府中町、高校2年から3年を福山市内と、転勤に伴う転校の多い学生時代でした。

中学・高校は転校することが多かったため友達が少なく、気分転換も兼ねて、料理やお菓子・パンを大好きなおじいちゃんや家族によく作っていて、食べることも大好きだったため、その頃の体重は60キロ超えていました。

大学時代

幼稚園の頃から、なぜが看護師になりたいと思っていましたので、看護専門学校に進学するつもりでしたが、たまたま友人に教えてもらった鳥取大学を受験することに。

受験の時に泊まった皆生温泉で見た日本海の荒波に感動し、絶対に受かると決意!!結果、見事に合格。たいして大きくもないキャンパスに驚き感動し、楽しいキャンパスライフを送るために痩せることを決意しました。

入らない9号の服を飾り、この服が着られる体型になる日を夢見ながら、学生生活がスタート。同時期、米子市内にある高級割烹料理店でアルバイトを始めました。

余った高級食材、カニやお刺身など、低カロリーの賄い(夕食)となり、ダイエットの効果もあってどんどん痩せていき、気づいた時には45キロぐらいに。

念願だった9号の服も入るようになり、大学生活をエンジョイする日々の中、痩せたことによる効果か?急にモテキ到来!

看護実習中に患者や医師に声をかけられるようになり、「中身は変わっていないのに、見た目が違うだけで、こんなに周囲の態度は変わるのか!!(怒)」と衝撃を受けました。

この時に、見た目の重要性を感じました。

就職活動

あれほど看護師になりたかったのに、アルバイト先の高級割烹料理店が気に入り就職を希望しましたが断られてしまい、やむなく就職活動をはじめました。

地元の広島大学病院へ連絡しましたが、とっくに就職試験は終わっていることを知り撃沈。

その後、当時の看護部長から「東京大学病院、筑波大学病院、東京医科歯科大学病院のどれかであれば私が紹介してあげるので、1年勤務して広大病院に戻ってきたらいいですよ」と、有り難い電話を頂き、「東京医科歯科大学病院」に就職できることになりました。

東京医科歯科大学病院での配属先はICU

1年たったら広島に戻れると思って就職した東京医科歯科大学病院での配属先は、過酷なICU。

手塚治のブラックジャックという漫画に唯一実在する胸部外科の医師「鈴木」先生がおられ、北は北海道、南は沖縄から心臓の手術を受けに、全国から患者が集まる病院のICU。突然、心臓が止まったりすると開胸手術などが行われるような、とんでもない場所でした。

1年目から過酷な仕事によって、体重は30キロ代にまで痩せてしまい、東京では遊ぶ時間も余裕もなく、あっという間に期限の1年は終わり、広島転勤の日を迎えました。

広島大学病院付属病院に転勤

ICUの重症病棟から一転、一般病棟勤務となり、患者さんとのやり取りにもやりがいを感じながら、医師との対等な関係が楽しく、同僚や研修医、医者と飲み会などにも参加しながら、忙しいけれど充実した日々を過ごしていました。

しかし、年齢と経験が上がってくると、当然ながら仕事の内容も責任のあるものに変わっていき、日勤のリーダーを任されるようにもなり、新人と二人で深夜勤務をこなすという過酷なものに。

その環境に大きなストレスを抱え込むようになり、心身ともに疲労が蓄積する日々。がん患者の看取りなども多く経験し疲労困憊となり、5年で退職を決意。

その頃、母親から何気なく「福山市の広報誌に”医師会看護学校教員募集”があるけど内容を聞いてみたら?」と言われ、面接を受けることになり、成り行きで次の就職先が決定。

これまで頑張ったご褒美に黄色の外車を一括で購入して、フリーターになるぞ!!と意気込んでいたのですが、3月末に退職し、翌4月1日には看護学校で働くことになり、あっけなくフリーターの夢は玉砕。

20代後半、看護専門学校の教員となる

職員の上下関係が今まで体験したことのないもので、年配教員から相当な厳しい指導を受けました。

私自身も、看護教育は初めてで、学生達がなぜできないのか?が分からず、学生たちにとって怖い怖い先生だったように思います。

今思い返せば、准看護師を目指した学生たちにとって、相当ひどい教員だったように思います。

結婚⇒退職⇒出産⇒資格取得

1人暮らしから9年ぶりに実家に戻ったはいいが、親との同居はとにかく息苦しい日々で。看護学校のストレスやプレッシャーもあって、結婚願望が強くなりお見合いをするように。

27歳の冬にお見合いした方から、出会って17日でプロポーズされ、実家を出られる嬉しさもあって結婚を決意。看護学校の勤務も続けていたため、式の前々日まで仕事をしての結婚式でした。

結婚後2年働き、なかなか子どもに恵まれなかったので退職を決めました。その後、結婚4年目に長男、その2年後に次男が誕生。

ちょこちょこと仕事をしながら、色んな資格を取得。その時に取得した数々の資格の中で、介護支援専門員(ケアマネジャー)が、今後の生活を支える重要な資格となってくれました。

アートメイクに出会う

次男も生まれ、嬉しいはずなのに、何もする気が起こらない。そんな毎日を過ごしていました。今、考えれば産後鬱の状態だったかもしれません。

そんな時、母が仕事で会った人から、アートメイクの資格の話を聴いてきました。話を聞いた数日後、私はスクールがある札幌に飛んでいました。何か夢中になれるものを探していたのだと思います。

アートメイクに心が動いた私は、札幌に1か月半ほど住み込み、アートメイクの国際ライセンス、まつ毛パーマ、フェイシャルマッサージ、フット・ハンドマッサージの資格を取得して福山に戻りました。

離婚を決意

夫は良い人であったと思います。子供が生まれる前も子どもが生まれてからも、海外や国内、色んな場所に連れて行ってくれました。

しかし、夫の実家との関わりも含めて、どうしても合いませんでした。心身が衰弱し、子供と共に自殺を考えるようにもなり、このままではダメだと次男1歳の誕生日に離婚を決意。

子供と共に実家に戻り、離婚調停を申請。半年かかりましたが、夫が受け入れてくれて離婚が成立しました。

社会福祉法人に就職

離婚調停を進めながら、結婚している間に取得したケアマネの資格を活かし、正社員として社会福祉法人に就職することに。

何もかもが新鮮で楽しく、もっぱら子育ては母親に任せて、仕事に慣れるため頑張っていました。この時34歳。

居宅介護支援事業所を作って独立

その後、ちょこちょこ職を変わったけれど、ケアマネの仕事が1番楽しくて、自分で事務所を構えることを考え始めました。

居宅介護支援事業所(ケアマネの事務所)をやるには法人にする必要があり、株式会社を作って独立。看護師の経験もあるケアマネは、医療の分野での強みも発揮できるため、ご依頼を多く頂けるようになりました。

徐々に利益も上がってきた頃、「メイクセラピー」なるものをネットで知って衝撃を受け、「この勉強がしたい!」と大阪に通うことに。

30代の終わり、メイクセラピストを目指す

自分らしくなるために、自分のためのメイクを学ぶために、大阪の教室へ月2回通うことに。アートメイクの勉強が、ここで役に立ちました。

メイクセラピー養成講座を修了。この世界で食べていくことを決意し、居宅介護支援事業所開設のため作った株式会社は知人に譲渡することにしました。

メイクセラピストとして独立

メイクセラピストと名乗って独立し、サイトを作り活動をはじめ、中国新聞の全県版、Wink(福山の情報誌)、経済レポートなどに掲載されたりもしましたが、私自身、営業も自己アピールも苦手であったことに気が付きました。

これで食べていくには厳しいし、誰に対して、どんなメイクセラピーを行っていけばいいのか?自分が、本当にやりたいこととは違う気がする・・・と迷いが生じていた頃に、大学教員にならないかという話がきました。

岐阜の大学教員となったが、半年で退職

年末近くのある日、親戚のパートナーで准教授の方から、「岐阜の看護大学の教員(助手)にならないか?」というお誘いの電話が母に入り、「子供たちは自分が面倒みるから、岐阜に行ってこい」と、母に背中を押されました。

子供たちのこともあり、迷いに迷いましたが、メイクでは食べていけないと腹をくくり、岐阜に単身赴任。

しかし、ハラスメントを受け、心身が衰弱し、何のために子供と離れてまで遠く岐阜にいるのか?が分からなくなり、半年で辞めて、福山に帰りました。

地元の看護大学の職員に

地元に戻ってすぐに、自宅近くの看護大学から声がかかり、在宅看護学領域の助手として働くことに。

子供たちと一緒にいられる日々が、とてもとても幸せで、充実した日々を感じられるようになってきました。

大学院に入学そして修了

看護大学の教員の仕事は、上司に恵まれ、本当に幸せを噛みしめる日々の中、2014年の4月から大学院修士課程に入学。

【化粧】をテーマに研究しようとして、他の先輩教員に「そんなテーマで大丈夫?」と、変な目で見られたり言われたりすることも。

その当時、【化粧】を研究テーマにする人はおらず、今のように「外見ケア」なんて言葉は無い時代だったので、【化粧】や【外見】を研究テーマに掲げることは異質なことだったのです。

卒業目前、死ぬかと思うほど勉強しまくり、なんとか卒論を仕上げて修了。2016年3月、無事卒業しました。44歳の時でした。

アピアランスケア(外見支援)の専門家を目指してサイト開設

2021年。現在も看護大学の教員を継続しています。教員の仕事を続けている中で、医療現場におけるアピアランスケア(外見支援)の重要性を感じることが多くなりました。

これまで勉強してきたアートメイクやメイクセラピーの知識も活かせる道が、ここにあるように思い、看護師やケアマネの経験やスキルを活かして、アピアランスケア(外見支援)のサポートを行っていきたいと考えるようになり、縁あって、当サイトを開設することにしました。

このサイトでは、アピアランスケア(外見支援)や専門である化粧・メイクについて色々な情報や知識を発信していきたいと思っています。